下級とは言え、貴族の物としてはあまりにもみすぼらしい墓石に、老婦人は持ってきた花束を手向けた。
そしていつものように合掌し深々と頭を垂れる。
この冷たい石の下には、彼女の一人息子がその妻と共に眠っている。
隊長命令に背くという武官としては致命的な行為を犯し、皇帝から死を賜った息子と、将来を悲観しその後を追った妻が。
その結果老婦人とその孫の家は、代々受け継いできた騎士籍は皇帝預かりとなり、貴族籍より除名という厳しい処分を受けた。
今では周囲からは裏切り者と後ろ指をさされながら、皇都の片隅でひっそりと身を隠すようにして暮らしている。
改めて老婦人は、墓石を見つめる。
除名された貴族籍への復活と預かりとなっている騎士籍とを取り戻すという悲願のため、最後に残された肉親である孫が今戦場へ引き出されようとしていた。
けれど彼女にとって、今更身分などはどうでも良いものになっていた。
とにかくその無事の帰還を祈るため、彼女はここへやって来たのである。
けれど墓石は何も語ろうとはしない。
深く溜息をつき、彼女はその場を離れた。
人気のない、木漏れ日が降り注ぐ共同墓地の中を、老婦人は背を丸めながら家路につく。
近く皇都を離れる孫のために、好物を用意してやろう、と思いながら。
と、その時だった。
墓地の中でも一際じめじめとした所にある、皇国に仇なす逆賊者達が埋められている場所へと向かう苔むした脇道から、前触れもなく一人の青年が姿を現した。
殆ど訪れる者もない、忌まわしい場所へと続くその道から。
年の頃は、老婦人の孫と同じくらいだろうか。
一目見てそれと解る下級神官の質素な長衣を身につけ、首からは何やら古代語が刻まれた護符を下げている。
全く癖のない真っ直ぐなセピア色の髪は背に届くほど長い。
自分を見つめる視線に気が付いたのか、青年は一瞬驚いたように顔を上げる。
そして、僅かに会釈をすると足早に
『蒼の隊』。 それはルウツ皇国の中でも極めて特異な存在だった。 ルウツの主な戦力は、色分けされた名で呼ばれるのが習わしである。 かつてロンダート家が所属し、皇宮警備や皇都の治安維持を主な任務とする皇帝直属の『朱の隊』。 皇帝を支える代表的な五つの伯爵家がもつ『緑』・『白』・『黒』・『黄』・『紫』の各隊。 そしてユノーが今回配された『蒼の隊』である。 『蒼の隊』はいかなる門閥にも属さない、流れの傭兵や、のし上がろうとする平民、そして失地回復をもくろむ没落貴族などから構成される、いわば混成部隊だった。 そのありとあらゆる階層出身の混成部隊を率い、由緒ある五伯家以上の働きをさせているのは、格を重んじる皇国で唯一の平民出身の司令官だった。 記録上の軍歴は約二年半。 だが初陣より一部隊を率いて以来、未だ敗戦を知らない。 その平民出身の彼のことを、庶民は尊敬を込めて、敵国はこれ以上ない畏怖の念を込めて、そしてルウツの高官や名だたる貴族達は蔑みを込めて、こう呼んでいた。 『無紋の勇者』と。 だが、華々しい働きとは裏腹に、その素性はあまり人々には語られていない。 解っているのは、司祭館にある孤児院で育ち、ルウツの大司祭であるカザリン・ナロード・マルケノフの養子となった、という事。 もっともこの養子縁組は、平民である彼が一部隊を率いる『勇者』の位を得るために、子爵家の出身の大司祭が動いた形ばかりのものだとも言われている。 シーリアス・マルケノフ。 それが、その渦中の人物の名前だった。彼を直接知る人は、口をそろえて言う。 あの人は得体の知れない人だ、と。 深い藍色の瞳は常に無表情で、何を考えているのかを決して他者に悟らせることはない。 そして、自分以外の存在はおろか、自分自身にさえも関心が無いように見える。そう評する人もいた。 噂には当然
この一歩一歩が、自分を確実に死へと導いている。 そう思うと、ユノーは情けなくも身体の震えを止めることが出来なかった。 騎馬の群がたてる規則正しい金属音に混じって、ユノーの手綱を握る指先がカチカチと小刻みな音を立てていた。 何事かと彼の脇をすり抜けていく古参の騎兵や騎士達は、くすんだ癖毛の金髪と優しげな水色の瞳のせいで実年齢よりも幼く見えるユノーの顔をのぞき込む。 そして彼らは等しく同情するように溜息をついて、ユノーを追い越していく。 恐らくユノーの置かれた状況を理解してのことだろう。 この『寄せ集め隊』には、しばしば同じような境遇の人間が配置されるのが慣例となっているのだから。「初陣なのか?」 急に背後から声をかけられ、驚きのあまりユノーは馬から落ちそうになる。 何より、こんなに接近されるまで気配を感じ取ることが出来なかった自分自身を、ユノーは恥ずかしく思った。 そんな自己嫌悪に捕らわれながらも、彼はようやく鞍の上に腰を落ち着ける。 すると、声をかけた当の本人はあっさりと馬首を並べる。 こちらを見つめるその鋭い視線を、ユノーは無言で受け止めた。「初陣で騎士待遇か。さすがは血筋がはっきりした貴族様だな。どこの馬の骨とも解らない俺とは大違いだ」 皮肉混じりに投げかけられた言葉を、ユノーは珍しく怒りを含んだ声で否定した。「そう言われても今回は仮待遇です。今は貴族籍から除名処分中なので、この戦いで死んででも軍功をあげなければ、本当に家名が取りつぶしになってしまいます」 身分を盾にして遊びに来たわけではない。 そう生真面目に答えるユノーに、横に並ぶその人は含み笑いで応じる。 更なる怒りを感じながら彼は隣に並ぶその人を注意深く観察した。 年の頃は、さして変わらないように見えた。 せいぜい一つか二つ違い、というところだろう。 けれど、その人が身にまとっている空気は、明らかに幾度も修羅場をくぐり抜けてきた人の……戦場に生きる人のそれだった。 それを裏付けるよ
この年、大陸統一歴一四八年は、戦で幕を開けた。 エドナのマケーネ大公配下ロンドベルト率いる北方方面駐留軍イング隊が、その駐屯地であるアレンタ平原を出、国境を接するルウツ領セナンへ攻撃を仕掛けた。 対するセナンの国境警備隊は、その黒一色の旗印を見て恐怖を覚え、一戦も交えることなく撤退してしまった。 それに呼応するようにエドナのアルタント大公は配下のシグル隊を、古都バドリナードにほど近いルウツ皇国領ルドラへ進軍させたのである。 古の都バドリナードは大帝ロジュア・ルウツが大陸統一の足がかりとした要地にして、現在はその大帝が眠る場所、言わば聖地である。 それを自らの手中に収め、優位に立つべくルウツ皇国とエドナの両大公家はその機会を虎視眈々とうかがい、牽制しあっていた。 このままでは、バドリナードはがいずれ二つの部隊から挟み撃ちされ、エドナの手に堕ちるかもしれない。 その事態を憂慮した宰相マリス侯は皇帝に対し出兵を進言した。 マリス侯を後見人として即位した病弱なルウツ皇帝メアリはその案を採った。 かくしてルドラへの出兵はなし崩しに決まった。 しかし、どの部隊を派兵するかでまた一騒動が起きた。 宰相マリス侯は、由緒ある五伯家のいずれかを、と提案した。 一方で皇帝の妹姫で、近衞と皇都の警備を担う『朱の隊』を預かるミレダ・ルウツが真っ向から反対した。 曰く、今必要なことは、権威や名誉ではなく確実に勝つという裏付けである、と。 皇国の現状を見ればそれは当然のことであるが、マリス侯は渋った。 それが犬猿の仲であるミレダの案であり、何よりマリス侯は『蒼の隊』その物を毛嫌いしていたからである。 だが自らも武人であり、しかも皇帝に連なるミレダの言葉に反論できる者はいなかった。 そこまでの命知らずは、存在しなかったのである。 こうして渋々ながらもマリス侯は蒼の隊を派兵することを了承した。 しかし宮廷でそんな裏事情があったなどと言うことを、最前線の人間は知る由もない。 ただ
本陣の天幕は、陣の中央にある。 一際大きな天幕の前で呼吸を整えてから、恐る恐るユノーは入口の幕を上げた。 広い内部には、ルドラ地方の地図が広げられており、事細かに敵の布陣状況が記入されている。 上座に座るセピアの髪の司令官は、面白くなさそうにそれを見つめていた。 申し訳なさそうに足を踏み入れ、邪魔をしないように細心の注意を払いながら最末席についたユノーには、全く興味がないようだった。 そして、各小隊長級以上の人々が三々五々入ってくる。 その度毎にユノーは一々立ち上がり、黙礼する。 それに気がついたシグマは、にやりと笑いながら親指を立ててそれに応じる。 共に入ってきたカイは、先程の話などまるでなかったかのようにいつもの穏やかな笑みを返してきた。 やがて全ての席が埋まる頃を見計らうかのように参謀長が姿を現し、それを合図に軍議は始まった。 まず発言したのは、最新の状況を実際に目にしてきた斥候隊長である。 押し殺したような声でぼそぼそと戦況が述べられ、その言葉に応じて地図に書かれた矢印は長く伸ばされる。 そして敵軍進路の延長線上には、古都バドリナードがあった。「直接バドリナードをおとそう、という訳か。確かにそれが一番手っ取り早いか」 面白くなさそうに言う司令官に、参謀長は顔を真っ赤にして怒鳴った。「そのように悠長なことを言っている場合ではありません! 一刻も早く物騒なエドナの逆賊共を……」「見る限り、相手の補給線はぎりぎりの所まで伸びている。周囲の村を二つ三つおさえれば、勝手に自滅してくれるだろう」「しかし、それでは時間がかかりすぎます! 陛下よりお預かりした貴重な兵員を、長期間危険にさらすような愚かな策は……」 立ち上がり、さらに激高する参謀長。
司令官の気まぐれにも等しい独断で突然配置換えになったユノーを待っていたのは、お飾りの式典仕様ではない、実戦向けの基礎軍事訓練だった。 カイは、小休止の度にそれこそすぐに使える且つ最小限必要な剣技をユノーに叩き込んだ。 始めのうちこそカイの剣を受けるのもままならず、あちらこちらに切り傷をこしらえていたがユノーだったが、三日程たつとそれなりに打ち合いを出来るようになっていた。「……どうでもいいけれど、妙な癖を付けさせんなよ。何事も基礎が大事なんだろ?」 あきれたように言うシグマに、カイは穏やかに反撃する。「だから、それじゃ間に合わないから、坊ちゃんはここに配置換えになったんだろう?」 二人の間で困ったように立ちつくすユノー。 その輪の中に、何の前触れもなく皮肉な笑い声が割って入った。「……痛み分けだな。まあ、あえて口出しはしないが。最低、本番までには敵の攻撃を受け流せる程度になってもらわないとな」 あと、余計な先入観を持たせるな、と付け加えるシーリアスに、ユノーは首を傾げる。「先入観……ですか?」「見たところ、貴官にはそれなりの素質がある。だが下手に揺り起こして、殺意を暴走させたくない。万一そうなれば敵も味方も仲良く全滅だ」 何気ないその一言に、ユノーは何故か底知れぬ不安を感じた。 だがそれを口にする前に、気まぐれな司令官は姿を消す。 そんな彼らを忌々しげに見つめる視線にユノーは気が付いた。 この先頭集団で唯一好きになれない人物。言うまでもなく宰相マリス侯直参の参謀長だった。 この人は宰相の名を口にしてその権威を振りかざし、何かにつけて司令官に異を唱えた。 何より行
皇都エル・フェイムを、薄暮の空が覆う。 薄紅に染まる広大な庭園を見下ろしながら、ルウツ皇帝の妹姫ミレダ・ルウツは思わず溜息をつく。 ルドラに向かっている蒼の隊からもたらされた『非公式』の報告書。 そこには事実だけが淡々とつづられている。 余計な言葉が全く含まれていないその文章は、まるで彼女自身が関わってしまった『過去』の重さを見せつけているようである。 改めてその文面を眺めやってから、彼女は再び溜息をついた。「あらあら、なんて顔をしていらっしゃるの? それでは幸運も逃げてしまうわよ」 突然の声にミレダは驚いて身体ごと振り向く。 そこにはルウツ皇国の精神的支柱である大司祭、カザリン・ナロード・マルケノフが穏やかな笑みを湛えていつの間にか立っていた。 淡い茶色の瞳に同じ色の髪。 質素な神官の長衣も物腰の柔らかく上品な大司祭が身につけていると、まるで上等なドレスのようだった。 普段は司祭館にいるこの人が皇宮にいるということは、おそらく体調を崩して政務を休んでいるミレダの姉皇帝メアリ・ルウツを見舞った帰りなのだろう。 慌てて姿勢を正し、ミレダは礼を返す。「失礼いたしました、猊下。お恥ずかしいところをお見せして……」 おだやかな表情のまま手を上げて、大司祭はその言葉を遮る。 一方ミレダの顔には、未だ不安げな表情が貼り付いたままだった。 勝ち気な妹姫が普段は決して見せないその様子に、大司祭は穏やかに諭す。「人の上に立つ人間は、不安定な心を顔に出してしまっては駄目よ。目の前に剣を突きつけられてもね」「……この国を動かしているのは、姉上と宰相です。私はその持ち駒の一つに過ぎません」「本当にそう思っていらっしゃるの?」 痛いところをつかれ、ミレダは再び窓の外に視線を巡らせる。この人だけには自らを偽ることが出来ない、昔からそうだったと思いながら。 そのミレダの心の内を知ってか、大司祭はゆっくりとその隣に並んで立つ。「……姉上のご様子は、いかがでした?」 遠慮がちに
皇女姉妹は、ゆるく波打つ赤茶色髪と宝石のように輝く青緑色の瞳という、よく似た外見をしていた。 そんな瓜ふたつと言っても良い外見とは異なり、おっとりしていて思慮深いが病弱な姉メアリ、勝ち気で頑固ではあるが曲がったことが大嫌いな妹ミレダと言うように全くと言っていいほど正反対だった。 ルウツの法では皇位継承権は男女に関わりなく皇帝の長子が持つ。 二人には一人従兄もいたが、皇帝の第一皇女たるメアリの即位は既定路線となっていた。 物心が付く頃から、既にミレダはしかるべく時は姉を護ることを自らの役目と理解し、その為に剣を学んだ。 そんな彼女の師となった人は、ルウツ皇国神官騎士団長のアンリ・ジョセという人物である。 優れた師についたことにより、天性の才能が開花したのだろうか、彼女の腕はめきめきと上達していった。 そんなある日、ミレダは途切れ途切れに子どもの泣き声を聞いた。 宮殿内の衛兵や侍従の居住区域には無論その家族と子どもも住んでいるが、それが後宮まで聞こえてくるはずはない。 けれど悲痛な声は途切れ途切れに響いてくる。 どうしてもそれが気にかかり、ミレダは姉に尋ねた。 だが、メアリは予想に反してこう答えた。 何も聞こえない、と。 自分がどこかおかしくなってしまったのだろうか。 一人思い悩むミレダの耳に入ってきたのは、うわさ好きな侍女達の他愛のないお喋りだった。 この間、皇都で一斉に行われた『草刈り』で、一人の子どもが捕まったらしい、と……。 もしかしたら。 そう意を決し、ミレダは師であるジョセに相談した。 いかに親が敵国の間者(かんじゃ)だったとはいえ、その子供に罪はないはずだから、納得がいかない。 何とかする事は出来ないか。 けれど、その言葉を受け止めるジョセの表情は厳しかった。 不安げにこちらを見つめてくる皇女に、ジョセは重い口をようやく開いた。「恐らく、その子は正規の裁きは受けていないでしょう。我々が救い出しても誰も異を唱えることは出来ないと思われます」
庭園を走ることしばし、突然草むらががさがさと揺れる。 剣を構え恐る恐る歩み寄るミレダであったが、ややあってその顔には安堵の表情が浮かんだ。 「師匠様、こんな所で何を?」 そう、そこに身を隠していたのは他でもなく、ミレダの師アンリ・ジョセだった。 その頬には無数のひっかき傷が赤く浮き上がり、噛みつかれたのだろうか、歯形が残る手には、マントにくるまれた何かを抱いている。「……お陰で助かりました。侯の懐に飛び込むなど、殿下のご命令とはいえ我ながら無茶をしたものです」 武人らしからぬ穏やかな灰色の瞳に苦笑に似た光を浮かべるジョセ。 慌ててミレダは駆け寄り、その腕の中に納まっている物をのぞき込み、思わず手にしていた剣を取り落とした。 抱かれていたのは他でもない、全身に傷を負った少年だったからである。 そんなミレダに、ジョセは既に司祭館には沐浴と薬師の手配はしてある、と告げた。「宰相の懐……? では、西の塔へお一人で?」 西塔はルウツ国内にある牢獄でも最も劣悪な環境と言われる所だ。 そして今目の前で苦笑を浮かべているジョセは中に潜り込み『その子』を助け出してきたのである。 正規に裁かれることなく捕らわれた敵国の間者の子どもを。「よりにもよって、最下層に押し込められていました。殿下のおっしゃる通り、確かに子どもに対してこの仕打ちは……」 そう言いながらジョセはその子どもの顔を見やりながら唇を噛んだ。 乱れたセピアの髪に、涙の後が残る血の気のない白い顔。 そして身体の至る所には非公式な『尋問』によるあらゆる種類の傷が刻まれ、更に両手首と首には重い枷がはめられていた。「師匠様
初陣以来、息子は着々と軍功を重ね、自分など足元にも及ばないほどの速さで出世していった。それは無論『目』という特異な力もそうだが、それ以上に武芸に励んだ結果でもあり、勇敢さが評価されたためでもあった。 駄馬の家系から駿馬が生まれたようなものだと当初自分は自嘲気味に思っていた。しかし、息子はそんな自分を心底尊敬してくれていると理解したとき、その考えは消えてなくなった。ただただ息子が無事に生きて戻ることを願い、共に生きながらえることができたことを喜ぶのが無二の楽しみになっていた。 そんなことが続いて、何年かの時が流れた。息子は大隊長付の副官的立場となっていた。そして自分のもとにも新たな辞令が届けられた。久しぶりの前線勤務、役職は中隊長だった。 それを知った息子は、父上と共に戦えるのですね、と心底嬉しそうな表情を浮かべていた。だが、目を輝かせている息子とは裏腹に、自分はこの人事に何かきな臭いものを感じていた。 自分が前線を離れて、もうかなりの年月が経つ。鍛錬こそ怠ってはいないが、実戦におけるカンというものはだいぶ鈍っているだろう。そんな自分を、なぜ今更前線に引っ張り出そうというのだろうか。 しかし、自分は国に仕える武人である。どんな裏があろうとも、下された命令には従わなければならないのだ。吐息を漏らしながら、自分は自らの武具を手入れしている息子を見やる。 志願して武人になった息子ではあるが、果たしてそれは息子の本当の意思だったのだろうか。自分は、卑しい利己心から息子の可能性を潰してしまったのではないだろうか。そして、唯一の家族である息子を、何やら恐ろしいものの中に巻き込んでしまったのではないだろうか。自分は、人の親として許されざることをしてしまったのかもしれない。 しかし、なぜこんなことを思うのだろう。自らの思考に疑問を抱きつつ、自分は武具を整えていた。 ※ 出陣を目前に控えたある日の昼下がり、かつての上官……つまりは亡くなった妻の父であり、息子にとっては祖父にあたる人が、珍しく家を訪ねてきた。 妻のことがあってからすっかり疎遠になっていた人が、一体どうして。
息子の決意を聞いた自分は、それまで教育係に丸投げにしていた鍛錬にまめに顔を出すようにした。時には直接剣をあわせたり、組手をした。加えて用兵術の方は知人のつてを頼って、かつて何度も武勲を上げた高名な退役指揮官の元へ通わせることにした。 直に剣をあわせてみると、驚くべきことに息子はかなり筋が良かった。一方で用兵術の方も大変飲みこみが早いようで、このままいけばどこへ出しても恥ずかしくない指揮官になれる、との有り難い言葉を頂いた。 いつしか息子の身長は自分よりも高くなり、成年を迎えた息子は、徴兵を待たずに志願して自ら武人となった。配属されたのは偶然なのか忖度なのかは定かではないが、所属する分隊こそは違うが自分と同じ部隊だった。 複雑な思いにとらわれる自分をよそに、辞令を手にした息子は自分に向かって深々と頭を下げこう言った。「今まで私を育ててくださり、感謝のしようもありません。この上は父上の名を汚さぬよう、立派な武人となってみせます」 そして、以後は一兵卒として厳しくご指導いただければ幸いです、とはにかんだように笑って見せた。 もっともその頃は、息子の剣技の腕は自分よりも遥かに卓越したものとなっていたので、教えられることなど無いも同然だった。しばし悩んたあと、自分は息子の肩を叩きながら、こう告げた。 より長く戦ってこそ国のためになる。決して、死に急ぐな。必ず生きて帰ることを考えろ、と。 ※ 程無くして、我々に出陣の命が下った。自分は後方の補給部隊、息子は前線の攻撃部隊の配属だった。 敵国の内部に張りめぐらせていた情報網が崩壊した今、敵の動きをつかむのは至難の業だった。戦闘は後手後手に周り、攻撃を仕掛けてくる敵を迎え撃つのに充分な準備期間を取ることはなかなか難しかった。 短期間で補給計画を練る自分をよそに、息子は支給された真新しい武具を嬉々として手入れしていた。 果たして、また息子に生きて会うことができるだろうか。 気がつけば自分はそんなことを考えていた。そして内心首をかしげる。やはり自分の内面は変化したのではないだろうか。 それまで自分は、
諜報機関の知人に会い家に戻ってからというもの、息子は部屋に閉じこもってしまった。もともと自分と居間で話すことなどほとんどなかったが、その様子は明らかにおかしかった。なぜなら教育係による訓練にも出ては来なくなってしまったのだから。 辛うじて乳母が運んでいる食事は受け取っているようだが、それもほとんど食べてはいないようだった。深夜には時折泣き声やうめき声が漏れ聞こえてくるので、たぶん満足に眠れていないのだろう。 そういえば自分も思い返してみれば、初陣を生き抜いて戦場から戻ってきたあとには、しばらくの間眠ることも食べることも満足にできなかった。成人を迎えていた自分ですらそうだったのだ。それを考えれば、無理もないことだろう。 やはり異国の凄惨な光景をいきなり眼前に突きつけられるというのは、年端もいかない息子にとっては、受け入れ難いほど衝撃的なものだったのだろう。命令だったとはいえ、配慮が足りなかった。そう自分自身を恥じた。 そしてふと、自分はあることに気がついた。それまで愛情のかけらすら持てずにどうしたらよいかわからなかった息子のことを、自分は今こうして心配している。加えて、申し訳ないことをしたと後悔の念を抱いている。これは一体、どういうことなのだろう。 自らの中に突如として生まれたもやもやとした感情をうまく整理することができず、自分は室内をうろうろと歩き回る。果たして自分は一体どうするべきなのだろうか。熟考した末ある結論に達し、自分は意を決して息子の部屋へ足を向けた。 息子の部屋の扉は、その心の内を示すかのように固く閉ざされていた。大きく息をついてから、扉を三度叩いた。もちろん返答はない。 けれど、ここで戻ってしまっては、自分は二度と息子と向かいあうことはできない。そう自らを奮い立たせ、扉を押し開いた。 薄暗い部屋の中で、息子は寝台に突っ伏して低く泣いていた。一大決心をしてここに来たつもりなのに、自分は息子に対して何と言葉をかけてよいかわからず、ただ戸口に立ち尽くしていた。 と、不意に泣き声がやんだ。おそらくは私の気配に気づいたのだろう。そして、息子は涙にぬれた黒い瞳をこちらに向けてきた。「…
敵国内の情報網を統括する知人は、すぐに息子を連れてくるように自分に告げた。それを聞き、自分はとあることを察した。我が国は今、重大な問題に直面しているという話が水面下で持ち上がっていた。息子の目は、その問題を打破するのに適したものだったからだ。 初めて自分と二人で外出すること、しかも外出先が自分の職場と関係がある場所であると知った息子は、年相応の子どもらしく嬉しそうだった。自分はそんな息子に若干の後ろめたい気持ちを感じていたが、これも息子のためなのだと無理矢理に思い込もうとしていた。 自分と息子を執務室に入れると、知人は座るようにうながした。そして、猫なで声で息子に向かいこんなことを言った。「君か。この国を助けてくれる有望な少年は」 初めての場所に加え、それなりの地位を持つ人物に対峙しているということもあり、息子はかなり萎縮しておびえている。かすかに震えながら、無言で一つうなずくのが精一杯のようだった。 その様子を察したのだろう。知人はいかつい顔に似合わぬ笑顔を浮かべてみせた。「そう固くなることはない。話はお父上から聞いているよ。君は見えないけれど見えているんだろう?」 まったく矛盾するようなその問いかけに、息子は戸惑いながらももう一度うなずいた。その反応に知人は満足そうな表情を浮かべると、卓に片肘を付きながら息子ににじり寄る。「どういうふうに見えているのか、教えてくれないか? 私の顔は、どうかな?」 すると、息子はぽつりぽつりと話し始めた。ふくよかな顔に太い眉に立派なひげ。息子は知人の顔の特徴を紛うことなく答える。その言葉は知人を満足させたようだ。にやりと笑うと、知人はおもむろに本題へ入った。「どうだろう、その不思議な能力を、この国のために貸してはくれないかな?」 思いもよらないことだったのだろう。息子は不安げに隣に座っている自分の顔をのぞき込んできた。 無理もないことだろう。いきなりこんなところへ連れてこられ、力を貸せなどと言われるのだから。 知人は鷹揚に頬杖を付き、睨めるような視線で息子を見やった。「
翌日、自分は息子と乳母を伴って聖堂へと向かった。 見えざるものに仕える神官にとっては禁忌である殺人をなりわいとする武人の自分である。当然のことながら信仰心などは皆無だ。聖堂など、自分にとってはもっとも不似合いな場所であり、めったに足を踏み入れることのない場所なことは、自分が一番良く知っている。 最後にこの場所を訪れたのは、妻の葬儀のときだったかもしれない。定められた日に行われる礼拝に預かることも皆無であるから、当然息子がここに来たのは初めてのことだった。 そんな信仰に薄い家族が血相をかえて飛び込んできたものだから、この地域の聖堂を預かっている主任司祭は驚いたような表情を浮かべながらも我々を迎え入れた。 光指す祭壇を背にして立つ主任司祭は、向かいあう長椅子に腰をかけている我々を、一体何事かとでも言うように見つめている。 自分は、物珍しそうに堂内を見回す息子に視線を送る。その様子はまるで普通の子どものようだった。しかし……。 意を決して自分は立ち上がり、率直に主任司祭に告げた。どうか息子を診てはくれないか、と。 それでもまだ要領を得ないような主任司祭に、自分はそれまでのことをとつとつと語った。 知っての通り、自分の妻は息子をこの世に生み出すのと引き換えにその生命を失ったこと。 妻が護ったとも言える息子は、武人の跡継ぎとも言える立場にあるのに目が見えないこと。 このようなことが重なり、自分は息子をずっと愛せずにること。 そんな息子が昨日、顔に傷を負った自分を前にして、それを心配する言葉を投げかけてきたこと。 今まで胸につかえていたことを一息に話し終えると、自分は力が抜けたかのように長椅子に深々と腰を掛けた。一方の主任司祭は、時折うなずきながら自分の言葉にじっと耳を傾けていてくれていた。 では、少々お待ちください、そう断ってから、主任司祭は乳母と共に聖堂の調度品について語り合う息子をしばらくと見つめる。それから息子と乳母の方に歩み寄った。 息子のかたわらに立った主任司祭は、息子に向かい事細かに聖堂内の彫刻や調度品について説明を始める。息子は黒い目を輝かせてその説明を聞いていた。 その様子を注意深く見ていると、主任司祭は息子の目の前で指を動かしてみたり、遠くにある彫刻を指さして息子の目
息子や娘という存在は、無条件に愛せるものだ。親にとって自らの血を分けた存在であるならば、なおのことだ。 自分は、ずっとそう思って疑わなかった。 けれど、実際自分が親という立場になってみると、その考えは単なる理想論に過ぎない、そう思い知らされたのである。 自分はこの国ではありふれた中流の武人の家に生まれた。なんの疑いもなくその職業を継ぎ、戦場ではそこそこ武勲を上げた。その結果かどうかはわからないが、縁あって上官の息女を妻として迎えることとなった。 初めて会った上官の息女は、無骨で無愛想な上官に似ても似つかないほどの美しく優しい女性で、特につややかな黒い髪と瞳が魅力的な人だった。 はじめのうちこそぎごちない共同生活を送っていた自分たちではあったが、日々を共に過ごすうち自然と愛情が芽生え、それは小さな形になった。 けれど愛情の結晶が息子という形でこの世に生まれ落ちた瞬間、妻はそれと引き換えにあっけなくこの世を去った。 子を産むという行為は、女性にとっては命がけのことだ。 そう頭では理解していたつもりではいたのだが、その事実を目の前に突きつけられた自分は、泣きわめく息子と冷たくなっていく妻を前にして呆然と立ち尽くすことしかできなかった。 けれど、武人という立場上、戦乱が続くこのご時世では妻の死を悲しんでばかりはいられない。 自分は戦のため家をあけることが多く、息子の世話は信頼の置ける乳母や召使いに任せ切りだった。 そして、家に戻っても何かと理由をつけ、自分は息子と向かい合おうとはしなかった。 その理由は、息子の容姿にあった。 黒い髪に黒い瞳を持つ息子の容姿は、失った妻を彷彿とさせ、なんとも言えない気分になる。 愛憎入り混じった感情、そう言ってしまえば簡単だが、そう単純なものではない。 だが下手をすると、自分はふつふつと湧いてくる複雑な感情から息子を手にかけてしまうかもしれない。 それが一番恐ろしく、自分は息子に会わないようなしていたのである。 そんなある日、戦から開放され自室で酒をあおっていた自分の
「……本当に、行くつもりなの?」 慈愛に満ちた大司祭の茶色の瞳は、卓を挟んで目の前に座す最愛の『息子』を不安げに見つめている。「ようやく、続けていた書写が終わりました。聖地リンピアスへ納めるならば、冬季の休戦期間に入る今を置いて他にはない。そう思います」 常の如く感情が全く感じられない声が、それに答える。 下級神官の長衣をまとった彼は、だが今日はその髪を無造作に束ねていた。 言葉もなく見つめてくる大司祭に、彼はさらに続ける。「確かに、自分が犯してしまったこと、そして忘れ難い過去の事実は、記録上抹消されたことですし、あくまでも非公式な物ですから、高官達も何も言えないとはわかっています。ですが……」 一端言葉を切り、自分を見つめる『母』の視線から逃れるように、彼はうつむく。「自分について公文書に記載されている事柄は、それこそ他者の血で塗り固められています。それでは……」 あの方のそばにいる資格はないとでも言いたげに唇を噛む彼に向かい、大司祭は諭すように言う。「……休戦期間だからこそ、内政は混乱を極めるでしょう。そんな時だからこそ誰かが殿下をお守りしなければいけなくはないくて?」「血と汚物にまみれた今の自分では、それに相応しくはありません」 せめてしかるべき地位を、とほとんど即答と言って良い速さで戻ってきたその言葉に、カザリン=ナロードはようやく折れた。どうやらその決意は固いらしい。 困ったような表情を浮かべながら、彼女は用意されていた書類を卓上に置いた。 それはルウツ大司祭の名で記された、正式な聖地への通行証だった。 だが、そこに記されている名は、『無紋の勇者』と畏れられている彼のそれではなかった。 前触れもなく失われてしまった『過去』に彼を繋ぎ止める、唯一のそれだった。「どうやら、決心は変えられないようね……。でもこれだけは約束してちょうだい。必ず帰ってくると」
雑草の上に、血の飛沫が舞う。緑の草むらに真紅の雫(しずく)がこぼれ落ちる。 刃を紅に染めた短剣が、やや遅れてその上に落ちた。「どうして、止めたんですか? 僕は貴方にとっては、恨んでも恨みきれない、ご両親の仇の子なんですよ?」 短剣を払いのけられると同時に、後方へと突き飛ばされたユノーは、体勢を立て直しながら言った。 その視線の先には、短剣をなぎ払った左腕から血を流すシーリアスが、傷口を押さえ草むらにうずくまっている。 長い前髪に阻まれて、どんな表情をしているのかは、うかがい知ることが出来なかった。「だから、貴方は『寂しい』方だったんですね。……僕と違って、声を上げて泣くことも許されなくて。一人で、戦場を巡って……」「……違う……」「同じ事です! 同じ罪を僕に押しつけて、貴方は一人で逃げるんですか? それでは……それでは僕は、あなたを助けようとした父に顔向けが出来ません」 返答は、無い。 立ち上がったユノーは、雑草の上に落ちた短剣を拾い上げ、手巾で丁寧に血糊を拭うと元通り鞘に収めた。 そして、身じろぎもせずうずくまるシーリアスに歩み寄った。「お返しします……。お父上の形見なら、大切な物でしょうから……」「……た、と……」「え?」 聞きとがめ、ユノーは首をかしげる。 その時になって初めて、ユノーは『無紋の勇者』と敵味方から畏れられているその人が、泣いていることに気が付いた。 低いつぶやきが、再びその口から漏れる。「君が死ななくて良かった、と……貴官の御父君の、最期の言葉だ……」 息を飲むユノーを気にするでもなく、懺悔の告白にも似た言葉は、更に続いた。「その瞬間、こちらに向け
そして、夜が明けた。 常ならば父や母の好物や花を手に、人目を避けるように家を出て墓参をしていた、父の命日が来た。 ようやくその無念を晴らすことができた、騎士籍を取り戻すことができた。そう父母に伝えられる日が。 が、ユノーはなぜかよからぬ胸騒ぎを感じていた。 適当な口実で不審がる祖母をはぐらかし、一足早く家を出た。 まだほとんどの店が鎧戸(よろいど)を閉めていて人通りがまったく無い街を、一路墓地へと向かい走る。 開門直後の入口は、既に先客がいたのか、僅かに開いていた。 さらに嫌な予感がした。 ユノーは思い鉄製の扉を押し開く。 墓地に溜まる邪気が街に流れ込むのを防ぐ結界でもある扉を通り抜けた途端、ユノーはある物を感じた。 押さえ込まれながらも溢れ出ようとする哀しい『力』の波動。 これと全く同じ物を、ユノーは以前ごく最近感じたことがある。 それは忘れもしない、ルドラの最終決戦の後……。 なるべく自分の気配を消しながら、ユノーはその『力』の波動が来る方向へ足を向ける。 記憶が確かであれば、滅多に足を運ぶ人もいない区域──皇帝に対する逆賊者をまとめて埋めている場所から流れてきている。 苔むした道を歩くユノーの足は僅かに震えていた。 鬱蒼(うっそう)と茂っていた木々が次第にまばらになる。 その木々の中、申し訳程度に整地された草むらに、やはり申し訳程度の粗末な石塔が建っている。 その前で祈る人の姿が見えた。 無造作に束ねられたセピアの髪が、風に揺れている。 その人が祈り終えたとき、だが現れるはずのあの光の群は、浮かび上がっては来なかった。 信じがたい現実。 言葉もなくユノーは木の幹にもたれかかる。 静けさの中、ユノーが良く知るその人の声が、いつもと同じく無感動に告げる。「罪人の魂が浮かばれないと言う伝承は本当らしいな。ここで何度祈りを捧げてみても、誰も天に呼ばれて行こうとはしない」 すでにユノーの存在に気付いていたのだろう。